渋沢栄一翁を知るAbout EIICHI

渋沢栄一

“渋沢栄一”ってどんな人?

「近代日本経済の父」渋沢栄一は、天保11年(1840年)に武蔵国榛沢郡血洗島村(現在の埼玉県深谷市血洗島)の農家に生まれました。

幼い頃から家業の藍玉の製造・販売や養蚕を手伝い、7歳になると、いとこの尾高惇忠のもとへ論語をはじめとする学問を習いに通いました。

20代で倒幕思想を抱き、惇忠や惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城乗っ取りなどを計画しましたが、時の情勢に詳しい長七郎の説得により中止。その後、喜作らとともに京都へ向かい、一橋(徳川)慶喜に仕えることになりました。

27歳の時、慶喜の弟である徳川昭武の随行でパリ万国博覧会などを視察し、欧州諸国の実情に触れることができました。大政奉還により帰国後、明治政府の大蔵省に仕官。明治6年(1873年)に大蔵省を辞めた後、実業界で企業の創設・育成に注力。「道徳経済合一説」を唱え、第一国立銀行をはじめとする500あまりの企業の設立などに関わり、また約600の教育・社会福祉事業の支援と民間外交にも熱心に取り組み、数々の功績を残しました。

2021年に放送されたNKH大河ドラマ「青天を衝け」の主人公に、2024年に刷新される一万円札の肖像画にも選ばれるなど、今最も注目されている偉人のひとりです。

近代日本経済の父 渋沢栄一

渋沢栄一(雅号「青淵」)は、天保11年(1840 年)現在の深谷市血洗島の農家に生まれました。父親からは律儀さ、人への思いやりを、母親からは慈悲のこころを学びました。母「えい」は大変慈悲深い人で、栄一は母の愛情をいっぱいに受けて育ちました。母は近所の人にも優しく、病弱な人の着物や食事の世話までしました。のちに栄一が社会福祉事業に熱心に取り組んだのはそんな母親の影響があったのでしょう。

また、いとこの尾高惇忠(雅号「藍香」)から論語をはじめとした学問を学ぶとともに尊王攘夷思想の影響を受けました。23歳のころ、徳川幕藩体制に疑問を抱いた栄一は尊王攘夷運動に加わりましたが、その後一橋家及び幕府に仕え、慶応3年(1867 年)、第15代将軍徳川慶喜の名代徳川昭武に随行して渡欧しました。約一年滞在する中で、ヨーロッパの進んだ思想・文化・社会などを目の当たりにし、大きな影響を受けました。

明治元年(1868 年)11月に帰国した後、大隈重信の説得により明治新政府の大蔵省に仕え、財政の整備に当たりましたが、大久保利通らと財政運営で意見が合わず辞職し、以後は実業界ので活躍しました。「論語」の精神を重んじ「道徳経済合一説」を唱え、各種産業の育成と多くの近代企業の確立に努め、第一国立銀行をはじめ設立等に関わった企業は500余に及びました。

また、600以上の社会福祉事業に関わるとともに、昭和6年(1931 年)に亡くなるまで、国際親善にも貢献しました。

パリ万博使節団一行(「渋沢資料館」所蔵

パリ万博使節団一行(「渋沢史料館」所蔵

実業家の出発点

栄一の家は農業、養蚕のほかに藍玉を製造していました。藍の葉を仕入れて、藍玉という染料にして売るのです。栄一もよく父親の供をして藍葉の仕入れの旅に出ていました。栄一が14歳の時、栄一と祖父とで買出しにでかけましたが、生意気ざかりの栄一は祖父を残し、一人で買い付けに行きました。

最初は栄一を相手にしなかった農家の人たちも、「この葉は肥料が足りないね。これは乾燥が不十分だね。」と言う栄一に驚き、栄一は上質の葉を安く仕入れたそうです。

実業家の出発点

倒幕から幕臣へ

当時は、幕府の御用金調達と称して、領主が富裕な領民に金を供出させることがたびたび行われていました。栄一が17歳の時、富農であった渋沢家は、血洗島の領主から500両の御用金を差し出すよう申しつかりました。父親の代わりとして岡部藩の陣屋に出頭した栄一は、役人のごう慢な態度に正論で対抗しました。この時のやりとりから「侍が威張るのは、結局は幕政が悪いからだ、階級制度が間違っているからだ。」という結論に達しました。こんな体制への反発が栄一を「倒幕」の意識に駆り立てていくのでした。

栄一は、近郷きっての知識人で10歳上のいとこ尾高惇忠、惇忠の弟である長七郎、いとこの渋沢喜作らとともに、高崎城を乗っ取り、横浜外国商館を焼き討ちするという計画を立て準備をはじめました。しかし長七郎は京都での見聞からこの計画に反対し、結局この計画は中止となりました。

栄一は23歳の時、喜作とともに、世の情勢を探るため京都に向かいました。元治元年(1864 年)、かねてより懇意にしていた一橋家の重臣、平岡円四郎の勧めで一橋慶喜(後の15代将軍徳川慶喜)に仕官することになり、一橋家では歩兵の募集、財政の改革、新しい事業の運営などで頭角をあらわしていきました。

ヨーロッパ派遣

慶応3年(1867 年)、栄一は、ナポレオンⅢ世が開くフランス・パリの万国博覧会に招待され将軍の名代として参加する徳川慶喜の弟、徳川昭武(14歳)に随行して渡欧しました。

好奇心旺盛な栄一は、ヨーロッパに滞在中にチョンマゲを切り、洋装に変え、議会・取引所・銀行・会社・工場・病院・上下水道などを見学しました。進んだヨーロッパ文明に驚き、また、人間平等主義にも感銘を受けました。

このヨーロッパ視察が、栄一の人生を大きく変えたのです。

ヨーロッパ派遣

官界から実業界へ

栄一は、帰国(明治元年)後、日本で最初の合本(株式)組織「商法会所」を駿府(現在の静岡県)に設立しました。翌年には明治政府の高官大隈重信の説得で大蔵省に出仕し、国家財政の確立に取り組みましたが、官界の硬直した体制に限界を感じた栄一は大蔵省を4年で辞め、実業界へ転進し、第一国立銀行をはじめ約500社の設立などに関与しました。

栄一の生涯を通じての基本理念は「論語」の精神(忠恕のこころ=まごころと思いやり)にあり、単なる利益追求ではなく、「道徳経済合一」による日本経済の発展でした。ここに実業界の指導者としての栄一の偉大さがあるのです。

官界から実業界へ

慈悲のこころ 社会福祉活動

栄一は社会福祉事業にも熱心でした。栄一は明治7年(1874 年)のとき、東京府からの要請で、身寄りのない子どもや老人を養う施設である「養育院」に関わり、以来91歳の天寿をまっとうするまで熱心に養育院の院長を務めました。また、児童養護施設「埼玉育児院」、知的障害児施設「滝乃川学園」の設立・運営、「救護法」の制定などにも力を尽くしました。

教育にも力を入れ、商法講習所(現一橋大学)の経営にも尽力しました。また、日本女子大学校(現日本女子大学)の創立委員にもなりました。


栄一は医療施設の整備にも情熱を燃やし、東京慈恵医院(現東京慈恵会医科大学附属病院)、恩賜財団済生会、財団法人聖路加国際病院、日本結核予防協会などの設立と運営にも関わりました。

慈悲のこころ 社会福祉活動

国際親善にも尽力

昭和に入り、日米関係が悪化してきたことに心を痛めていた栄一に、アメリカから、人形による国際交流を行い日米友好を図りたいという依頼がきました。栄一は外務省などと連携し「日本国際児童親善会」を組織し、アメリカ側から 12,739 体の「青い目の人形」を受け入れました。この人形は全国各地の小学校へ送られ、大歓迎を受けました。

後に、返礼として58体の日本人形がアメリカへ贈られました。現在「青い目の人形」は埼玉県内の小学校などに12体(全国で300体以上)が保存されています。


また、栄一は第18代アメリカ大統領グラント、救世軍ウィリアム・ブース、中国の政治指導者孫文など、世界の著名人とも親交がありました。

国際親善にも尽力

論語の里

栄一は、幼少の頃から「論語」を学び、生涯を通して論語に親しみました。初め父親の渋沢市郎右衛門に論語を学びましたが、7歳頃から尾高惇忠に習うようになりました。栄一が「中の家」から論語を習いに通った尾高惇忠生家の周辺には、栄一にゆかりのある史跡等が数多く残されており、それらを総称して「論語の里」と呼んでいます。

 

論語の里

栄一と富岡製糸場

殖産興業を進める明治政府は、明治3年(1870 年)、貿易による外貨獲得のため、模範的な洋式製糸工場の建設を計画しました。富岡製糸場設置主任の栄一や尾高惇忠の主導のもと、フランス人技師ポール・ブリュナを建設技術者に迎え、現在の群馬県富岡市に建設が進められました。2年後に富岡製糸場が完成すると尾高惇忠は初代の場長となりました。

平成26年6月、富岡製糸場と絹産業遺産群が世界文化遺産に登録されました。

栄一と富岡製糸場

栄一の雅号「青淵」の由来

栄一の生地「中の家」の近くに「上の淵」と呼ばれる青々とした深い淵があったことにちなみ、尾高惇忠により「青淵」と命名されたと言われています。

栄一とレンガと深谷市

深谷市では渋沢栄一の感性と情熱を継承し、市民が誇れる美しいまち、次代に引き継がれる個性豊かなまちをつくるため、JR深谷駅舎や深谷市総合体育館(深谷ビッグタートル)など、レンガを使用した施設づくりを行っています。

深谷市のレンガ史は、栄一が明治20年に設立した日本煉瓦製造会社の工場に始まります。日本煉瓦製造会社で製造されたレンガは、明治時代の代表的な建築である司法省(現法務省)・東京駅・日本銀行・赤坂離宮・旧東京裁判所・旧警視庁などに使われ、また栄一ゆかりの大正時代の名建築物である誠之堂(国重要文化財)にも使われました

栄一とレンガと深谷市

煮ぼうとう

昔から深谷に伝わる郷土料理「煮ぼうとう」。手打ちの平麺にネギや大根、にんじんなどの野菜がたっぷり入った、しょうゆ味のうどんです。栄一も好んで食べたといわれています。

煮ぼうとう

渋沢栄一翁関連資料

「渋沢栄一翁の教え」デジタルブック

幾多に渡り渋沢栄一翁の言葉は研究されてきましたが、今回は経営、その中でも特に「創業」の観点から、「徳」、「知」、「情」、「意」、「挑」、「動」、「熱」、「責」の8つの項目にまとめました。8つの方向性を定めて読むことで、私たちの経営の「今」に、何が必要なのかが明確に浮かび上がります。

渋沢栄一翁略年譜

渋沢栄一(1840-1931)の活躍の軌跡を年表形式でまとめました。

時系列にどのような活動をしていたのかを整理しています。

「渋沢栄一翁の教え」デジタルブック

渋沢栄一翁オリジナルロゴマーク

渋沢栄一翁の言葉に学ぶ8つの言霊

渋沢栄一翁の言葉は多岐にわたり、現代経営学に当てはめても肝心なところはほとんど網羅されていたのではないかと感じるほどです。
しかし、数が多すぎて、しかも明治初期の言葉なので、私たちが、その言葉を受け、実際の経営に活かすにはちょっと難しいかもしれません。
そこで、渋沢栄一翁の言葉を「徳」、「志」、「智」、「仁」、「創」、「動」、「常」、「責」の8つに集約し、それぞれの大切な言葉を私たちにわかりやすく伝えてくれる8人の「言霊の巫女」から、きっと渋沢栄一翁が、彼女たちを通じて、皆さんを成功に導いてくれるはずです。

渋沢栄一翁の言葉に学ぶ8つの言霊

8人の言霊巫女「ことがみ」の紹介

  • 徳川明日香
  • 志摩葵
  • 越智彩香
  • 明神優香
  • 創新七海
  • 石堂美咲
  • 常盤萌
  • 有責楓